「小さな家族が逝ってしまった話」
「小さな家族が逝ってしまった話」
はじめに
書きっぱなしの文章です。推敲はしないままに張り付けました。悲しい気持ちに引っ張られるままにせず、自分の感情を整理して折合いを付けたかったのです。
プログ自体は思い立って作ったままにしていたものです。今回、思い出したように使ってみることにしました。
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実家で飼われていた猫が亡くなってしまって悲しい。
「ゆず」という名前のそのネコは、キジトラ猫の男の子で年齢は6歳ほどであった。残念ながら腎臓の機能が思わしくなかったらしい。もっと健康でいてほしかったのだが…
あのふわふわだった毛並みや、「リンリン」という首輪に付けていた鈴の音が思い起こされてきてもの悲しい気分になる。
家に帰った時はいつも、当たり前のように居た猫だったから、もう会えないということを思うと悲しい。
そのことを考えると、少しの時間を経た今現在も涙と鼻水が流れそうになる。
先月末には、実家に住む母と通話をした際に
「ゆず(飼っていたネコの名前)の体調があまり良くない。点滴をしている」
という話を聞いたっきりだったので、彼(ネコのことである)のその後の経過が気になってはいた。
この二、三日はふと
「ゆずはどうしているだろうか??」
と気掛かりな感情とともに、彼の予後のことが頭をよぎっていた。
そして、今日のお昼に祖母から
「ゆずが亡くなったんだよ」
という着信を受けた際はあまり実感が湧かず、
「ああ、亡くなってしまったんだ」
とただただその言葉を受け止めるだけであった。
だけど、一時間そしてまた一時間と経過するにつれて、ずんずんと重い気分が大きくなってくる。
ああ、これは大切な人が亡くなった時に受ける感情と変わらないものなのだ。
彼は人間ではなくてネコであった。言葉は通じない。
だけど、家族だったのである。
夏休み期間に帰省した時には、撫でたり一緒に遊んだ体験が印象に残っている。
会う頻度は多くなかったとは言え、親しい存在だったので残念である。
彼は人間ではなくネコではあったけど、自分にとって大切な人が逝ってしまった時と同じような感覚が体を走るようだ。
なんというか、重いものが体の深部にズーンとくるような、そういう感じだ。そしてこれは苦手な気分である。
人間と比較するとネコの寿命が短いことを改めて実感する。
生物の種としての寿命の差を踏まえて想像してみると、ネコの体感する時間感覚は、人間の体感する時間よりも遥かに速いものなのかもしれない。
それならば、ネコであった彼にとっての時間の密度というものは、私たち人間からすると、あたかも圧縮されたように感じられる密度の高いもの、濃い時間であったのかもしれない。
もしかすると、人間が何か過去に過ぎた出来事を回想するようなスビード感で、彼はネコの時間を生きていたのではないだろうか。
だとしたら、人間にとってのほんのひと時の時間も、ネコにとって人間が体感する以上にもっともっと濃い時間だったのかなと、想像を巡らせてしまう。
悲しみに暮れるよりは、猫であった彼が自分や家族に何を与えてくれたのかを考えたい。
悲しい気持ちに浸るよりも、彼への感謝の気持ちを自分の内に満たしていきたい。
その方が態度として健全じゃないだろうか。
とは言え、残念な出来事である。
悲しい。
動くぬいぐるみのような猫だった。
手足は白い靴下を履いているようであった。お腹の毛も白かったので「白白ちゃんだね~」というようなことを言ってたことを記憶している。
もう一度、撫でたかったのだが。
ありがとう、ゆず。
安らかであれ。
11月11日、日曜日。22:30第一稿。
翌日、月曜日。19:53分加筆修正。